日刊ゲンダイ(講談社)愉快な病気たち(心臓ペースメーカー)画家・田中茂

日刊ゲンダイ(講談社)愉快な病気たちに掲載されました。

日刊ゲンダイ(講談社)「愉快な病気たち」

◆画家 田中茂さん 55歳

~神経調節性失神(心臓ペースメーカー)

 病気の名前はいろいろ変遷があるのですが、39歳で心臓ペースメーカーを埋め込んだときには「神経調節性失神」という診断名でした。過度の痛みなどで血管に圧力がかかると血管の緊張を緩める副交感神経が働きすぎてしまい、血圧が急激に下がって失神してしまうのです。
 思えば、小学生のときから朝礼や全校集会でよく失神していました。
 最初に異常が見つかったのは中学の身体検査の心電図でした。病院では「完全房室ブロック」と診断されました。心臓の房室から心室に電気刺激が伝わらない病気です。診断されたその日から処方された薬を毎日飲み、体育の授業や部活(卓球部)は見学することになりました。
 悲しかったですよ。「自分は不合格な人間なんだ」「死ぬまで運動はできないんだ」と悩み続けました。でも、そのうちこう考えるようになったのです。「この体は神様からの預かりもの。やりたいことをやれるだけやって、ダメになったら神様に返せばいいや」って。いつ死んでもいいように悔いのない生き方を意識するようになりました。
 それで勝手に薬を止めて、主治医にも「もう薬は飲まないからいらない」と伝え、部活も体育も出ることにしました。相変わらず朝礼などでは倒れていましたが、それ以外は大きなトラブルなく高校に進学できました。
 高校時代には太ももから心臓へカテーテルを入れて行う検査をしました。その時は「洞不全症候群」という、いわゆる不整脈を総称する診断名でした。
 ときどき失神を起こす青年期ではありましたが、運動は普通にやっていました。思い出深いのは、夏休みに岐阜―横浜間や岐阜ー九州間を自転車で旅したことです。計画段階で主治医に相談すると、「自殺行為だぞ」と言われましたが、折れませんでした。先生も渋々「1時間に1回の水分補給すること。苦しくなったらすぐ救急車を呼びなさい」という助言で送り出してくれました。その結果、無事に帰還。「やればできるじゃん」と自信を得ました。
 その後も治療という治療は何もなく、薬もなし。ただ、24時間かけて心臓の動きを記録するホルター心電図を定期的に着けて経過観察していました。
 父親のペンキ屋を継いで働き始めた後も、相変わらずよく失神していました。クレーマーの電話対応中だったり、厳しい大工の長い話を聞いている最中にもね。そのうえ痛みにも弱くて、どこかに体をぶつけたり、ちょっとケガして麻酔注射を打つだけでも失神しちゃうんです。
 30歳すぎた頃でしょうか、ホルター心電図の結果を見ると、夜中に心拍が時々止まる時間が長くなってきたんです。子供がまだ小さかったですし、主治医には「車の運転中に失神したら大事故になるよ」と言われ、39歳のときに心臓ペースメーカーを入れる手術を受けました。
 マッチ箱ほどの大きさの本体と、そこから延びるリード線で構成されていて、本体は肩と胸の間ぐらいに埋め込み、リード線は心臓の内側にねじ込まれています。
 入院は1週間ぐらいだったと思いますが、退院前に特殊な装置に体を固定されて、ペースメーカーの設定を調整しました。ペースメーカーは心拍が止まると感知して電気刺激を送る装置です。その強さや感度は外側から調節できるのです。どのくらいに設定したらいいのか、どこまでやったらやりすぎなのかなどを“実験”したのです。ペースメーカーは今でも定期的に受診して状態を点検しています。おかげさまで、退院してからは一度も失神していません。
 埋め込みから15年経った昨年3月には本体を入れ替えました。電池の残量やバッテリーの圧力などが低下してくるので、状況に合わせて入れ替えるもののようです。私の電池は長く持った方だと聞いています。電気刺激を送る回数が少なければ電池の減りも少ないわけですから、私の心臓は割と自力で頑張っているのだと思います。
 「電池がだいぶ減っているので2週間後に交換の手術をしましょう」と言われたのは2月上旬でした。でも、下旬にはパリでの美術展が決まっていたので、3月上旬に手術をしていただきました。本来、3月は先生方の都合で無理だったのですが、私がどうしてもパリ行きを譲らず、4月ではさすがに電池切れしそうだったので、先生方が折れて、スケジュールや手術室の空きを調整してくださいました。
 最初はいろいろ気になりましたが、今となってはぺースメーカーが入っていることはほぼ忘れて生活しています。気を付けているのは疲れないようにすることかな。でも、1~2年前にニューヨークの美術展に出展したとき、現地でコロナウイルスにかかって大変でした。米国は保険が効かないから、なんだかんだ70万円ぐらいかかりました(笑)。
 今は、ペンキ屋の現場は職人に任せて、自分は営業や現場管理をしています。画家として絵を描くのは夕食後から深夜1時頃まで。でも全然、苦になりません。これは天命だと思っています。コロナ禍に見つけた絵画は、残りの人生の旅のような気がします。
戦争や災害、世の中には痛いことが本当に多いです。痛いこといっぱいされてきたので痛いことはもういらないです。僕だけは、暖かいものを残して逝けたら幸せです。
(聞き手=松永詠美子)
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たなか・しげる 1970年、岐阜県生まれ。12歳で油絵を学ぶが、高校卒業後は家業を継ぎ、建築塗装職人となる。一方で劇団に所属してミュージカルに出演したり、舞台の背景画を担当した経験を持つ。ブランクを経てコロナ禍の2021年に絵画を再開。羽島市美術展で大賞を受賞したのをきっかけに精力的に作品を制作し、国内外で評価される。2024年にはスペイン、マドリードで個展を開催した。